高津戸峡 要害山 (標高270m) ※今年残り少ない群馬の紅葉観賞! 2014年11月27日
高津戸狭駐車場⇒遊歩道入口⇒東屋⇒はねたき橋⇒要害山山道入口⇒要害神社(山頂)⇒
展望台⇒展望台兼東屋⇒高津戸狭駐車場 pm13:25〜pm14:50 yahoo地図 map
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高津戸峡は渡良瀬川の中流にあり、吾妻峡とともに「関東の耶馬渓」と称される景勝地で、はね滝、ポットホール、ゴリラ岩、スケルトン岩などの奇勝が見られます。高津戸橋から、はねたき橋にかけて遊歩道が整備されて両橋からは絶景が広がり、東毛地域を代表する紅葉の名所となっています。 |
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半休ですので午後より、ワンコを引き連れみどり市にある高津戸峡へ紅葉観賞に出かけます。高津戸橋の眼下は渡良瀬川が流れる素晴らしい景観美の渓谷で、その上の小さいお山は要害山(要害神社)です。高津戸橋からはねたき橋にかけて、川沿いに全長453mの遊歩道があり、渓谷美を楽しめる人気の観光スポットに訪問です。※写真は「はねたき橋」より
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関東の耶馬渓といわれている高津戸狭へは、菊まつりや紅葉観賞に良く出かける馴染みの観光スポットです。本日は5年振りに要害山にも訪問する事にします。高津戸橋から眼下に高津戸狭と△形に見えるのはねたき橋です。
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紅葉に染まった遊歩道入口では、華やかな色彩で迎えてくれました。 時間的に余り人がいないのでひとり占め状態!
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遊歩道を下がって行くと真っ赤に染まった紅葉がお見事! この場所はグットタイミングの100%見頃状態!
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渓谷沿いの紅葉は落葉が始まっている。 急に雲が出てきて日陰! すぐに雲は去り良い日差しでワンコもご機嫌!
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遊歩道から見える高津戸橋 真っ青な空とはねたき橋
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案内標識通り目をやると、無理やり似せられた? ゴリラ岩です。この岩石からは石灰紀のコノドント化石が発見され、地元のコノドント館に展示されているそうです。
しばらく進むとスケルトンの岩という標識があり、水面下にはいくつもの岩が透けて見えました。 遊歩道から標識通り河川に下りて行くと、ポットホールと言う自然が作った丸い恐竜の卵みたいな石があります。岩のくぼみにはまった石が水の流れで回転し、くぼみを大きくして甌穴ができ、ビッグな卵状の石になったそうです。
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東屋を過ぎて、はねたき橋と紅葉 陽射しを浴び!真っ赤に輝く紅葉!
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橋の下は両岸から張り出した岩で川幅が狭まり、岩に当たる水が飛散する様が滝のように見えるので、はね滝といわれています。約120mの歩行者専用吊り橋の真上から眺める高津戸狭は絶景です。
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振り返って、はねたき橋と紅葉に染まった要害山! 要害山は本当にかわいい小さなお山です。
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はなたき橋は渡良瀬川に架るお洒落な橋! 紅葉と高津戸橋
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真っ赤に紅葉で染まったはねたき橋入り口へ戻って来ました。 真っ青!真っ赤!
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高津戸峡より離れ、車道を上がって行きます。 高津戸ダムと赤城山!
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車道をしばらく進むと要害山入口 短いが意外と急な斜面です。ワンコは早い! 見上げると!
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寂しげな万年無人の要害山(要害神社)に到着!お手水場は今回も枯れていました。要害山神社は約890年位前、高津戸城で承徳・康和年間に山田氏によって築かれた高津戸城跡です。境内周辺はイノシシに掘られた穴が無数にあり、庭は荒されていました。
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要害神社を一回りすると見事な紅葉スポットになっていて、眼下にはみどり市の風景や赤城山方面の眺望が木々の間から飛び込んできます。使用頻度が極端に無さそうな遊具(ジャングルジム)が、不思議な風景に映ります。
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通常と逆回りですがすれ違う人も無く、今回もひとっこひとり居ない静かなハイキングコースでした。鳥居をくぐり、WCがある展望台広場に出ます。
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展望台より眼下に大間々駅を望む! お次は風流な展望台!
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風流な展望台からの景色 心地よい遊歩道 随所に案内表示
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眼下に大間々の町並み 下がって行くと紅葉ゾーンへ! 一旦車道を横切る
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要害山ハイキングコースは大変静かでした。 近道で高津戸橋へ下がります。
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ネットの情報では、高津戸峡の紅葉は色あせ始めですが、高津戸橋&はねたき橋付近はまだまだ嬉しい見頃でした。
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高津戸峡遊歩道と要害山!どらもこの場所付近が入口です。 真っ赤な橋と真っ黄色の紅葉!
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高津戸橋より要害山 午後からの心地良い散歩でしたので、ワンコもご機嫌の様子でした。
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おまけ【みどり市の要害山とは?】
要害山は、昔、高津戸城という山城でした。
平地から80mの高さがあり、西側は渡良瀬川の断崖の高津戸峡ですので、
その名のとおり、まさしく要害の地だったといえます。
高津戸城は、城の尾根を堀で何ヶ所か分断させ、堀と堀の間は平らにし、曲輪(くるわ)としています。
山頂の要害神社のある場所は、もともと本丸があった場所で、その南には二の丸、さらに三の丸と続きます。
城にまつわる話として、悲劇の里見兄弟の話があります。
高津戸城は、平安時代末期の寛治2年(1088年)山田七郎平吉之が築城しました。
しかし、室町時代の初めの観応2年(1351年)桐生国綱によって滅ぼされたと伝えられています。
その後、天正5年(1577年)里見勝政、勝安兄弟が、仁田山の赤萩城主だった父の仇を討つため、
上杉謙信の支援を受けて高津戸城にこもります。しかし、北条を後ろ盾とする太田金山城の由良氏の怒りを買い、
宿願を果たせぬまま、兄弟は壮烈な最期を遂げました。この里見兄弟の物語は、
強大な北条、上杉、武田の勢力争いの中で翻弄されていた戦国時代の上野国の悲哀を象徴するできごとでした。
その後城は由良氏に任され、
天正18年(1590年)までは阿久沢氏に属していましたが、以後はまったく廃城となりました。
※わたらせの風HPより!
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