蔵王山(熊野岳)


熊野岳 標高:1,840.5m  刈田岳 標高:1,758m  地蔵山 標高:1,736m 三宝荒神山 標高:1,703m 
 標高差約120m 歩行距離約9.2q
   (おまけ:会津鶴ヶ城)

刈田峠レストハウス駐車場(9:38)⇒刈田岳・刈田嶺神社(9:45〜9:55)⇒避難小屋(10:42)⇒ 蔵王山(熊野岳)
(10:53〜10:08)⇒ワサ小屋跡分岐地蔵山(11:28)⇒地蔵山(11:43〜12:12)⇒三宝荒神山(12:32)⇒
避難小屋(13:53)⇒五色沼眺望場所(14:16〜14:31)⇒刈田峠レストハウス駐車場(14:45)
 (歩行時:3時間58分 全所要時間5間時間07分)  am9:38〜pm:14:45  yahoo地図  コースmap
蔵王山という特定のピークは特になく、北の雁戸山から南の不忘山に至る山々を総称して蔵王連峰と呼び、最高峰である熊野岳を中心とした山域を蔵王山と呼ぶことが多い。蔵王エコーラインが刈田岳山頂直下まで伸び、軽装で熊野岳往復する事も珍しくはなくなりましたが、高山帯の厳しい自然にかわりはありません。標高2000m足らずでも、植生や気象は北アルプスと同程度と考えておいたほうが良いでしょう。
五色沼は刈田岳・熊野岳・五色岳の3峰に抱かれた円型の火口湖。釜状なので「御釜」という名前がつきました。湖面はエメラルドグリーンの水をたたえ、荒々しい火口壁と対比して神秘的な雰囲気。冬の樹氷と共に蔵王の象徴となっています。今まで26回の噴火を繰返し、最近では明治28年2月15日に噴火しました。昭和14年に測深した当時は深さが63mありましたが、五色岳断崖の崩壊により年々埋まり、昭和43年の測深時には最大深度27.6m、平均深度17.8m、周囲1,080m、東西径325m、南北径325 mでした。湖水は強酸性のため生物は生息できません。水温は表面から10数mの深度で摂氏2度まで下がり、それより深度を増すと温度が高くなる特殊双温水層で、世界でも例がない湖です。太陽光線の当たり方で様々に色を変えるため、「五色湖」とも呼ばれています。南西から流れ出て濁川となり、賽の磧の北側を迂回して太平洋側へ流れ出ています。※蔵王町観光協会より

深夜の東北高速を走り、コマクサ平駐車場手前の大駐車場(水洗WCアリ)に、午前1時に到着です。大駐車場は予想外の貸切でした。コンビニで買ったつまみと角のハイボールを頂き、車中泊です。早朝、陽が射していましたが、徐々に曇ってしまいました。ホット珈琲を頂いたりして、遅めの出発になります。蔵王エコーライン(普通車520円)を走り、刈田峠レストハウス駐車場へと向かいます。車中泊場所から20分位で到着です。
レストハウス駐車場で支度を整え9:38分、スタートです。横風が強く、雲の動きが忙しくなって来ました。刈田峠レストハウスより少し歩くと、早くもお釜が見える展望台に到着です。お釜の左側には蔵王山最高峰の「熊野岳」が早くも見えています。
展望台から更に100m位登って行くと刈田岳に、あっ気無く到着します。山頂にある刈田嶺神社はかつて、蔵王信仰の根本・蔵王大権現社が鎮座していました。江戸時代後期に流行した蔵王参詣では、この蔵王大権現に参拝することが目的となりました。明治初頭、神仏分離令を受けて、嶽之坊と合一して水分神社(みくまりじんじゃ)と改称、さらに蔵王刈田嶺神社奥宮と改めて現在に至ります。
刈田嶺神社前より、刈田岳山頂越しにお釜(五色沼)を望みます。刈田岳までレストハウスから石段を歩いて10分前後です。 山頂は眺望も良いので賑やかです。刈田岳の歴史は古くから刈田嶺、不忘山(わすれずの山)と呼ばれていました。江戸時代の文化、文政のころには、年間1万数千人の登拝者があったという記録もあります。昭和37年の蔵王エコーラインの開通、同39年の蔵王ハイラインの開通により、山頂までわずか200m足らずの歩行で登れるようになりました。当然登山の対象とはなり得ず、完全に観光地化されました。

緩やかな馬の背コースで、熊野岳へと向かいます。丘に見える左先が熊野岳山頂です。空がどんよりして来て小雨が降り出しました。しかしながら雨具を使うほどではありません。
エメラルトグリーン色した五色沼を眼下に眺めながら、爽快に歩きます。日が射していないので光沢が得られなく、ちょっぴり残念です。
やがて頑丈な佇まいの、熊野岳避難小屋に到着です。PやRW駅より、然程の距離はありませんが、冬季は猛烈な豪雪地帯になりますので、心強い避難小屋だと思います。中を覗くと意外と狭く、ストーブや電話、飲料水までありました。
小屋の奥に避難小屋跡のような石積みが残っています。すぐにワサ小屋跡、地蔵山方面と分岐があります。真直ぐ丘のような広々とした場所を歩いて行くと、山頂の神社が見えてきました。
熊野岳に10:53分、到着です。山頂はとても広く、熊野神社や避難小屋などがあります。雲が掛かっていますが、360度のパノラマが広がります。なだらかな山頂ですので、各方向に少し歩き回った方が良く見えます。
蔵王山神社と書かれた、立派な標識がありました。後方には飯豊本山〜大朝日岳〜月山が見えます。

朝日連峰のアップ


北蔵王の雁戸山

月山〜葉山が雲海越しに見えます。今から向かう地蔵山は隣のピークです。熊野岳から鞍部のワサ小屋跡手前まで、ゴロ岩のショートカット道で下がれます。
ワサ小屋跡に到着です。頭部が新しいヤマンバ様がでっかく鎮座しています。以前まで「首なし姥神さま」だったそうです。失礼ながら、「般若」顔負けの迫力且つ、ドスの利いたお顔をしていました。設置されている案内板によりますと、姥神ヤマンバ様は昔、ワサ小屋で番をしていた「ワサさん」という老婆で、参拝者の面倒を見ていたそうです.。※頭部だけ新しいのが分かります。
ワサ小屋跡を過ぎて、RW山頂駅との分岐を左の地蔵山方面へ向かいます。木道を歩いて程なくすると、静かな地蔵山山頂です。端の斜めったベンチに座り、昼食タイムに入ります。
地蔵山より、眼下にに見えるお地蔵さん広場まで一気に標高を下げます。RWが到着したので、団子になって皆さん登って来ます。刈田岳でお会いした夫婦に、又もやすれ違います。話をすると「馬の背付近で小雨が降り出したので刈田峠レストハウスまで戻り、車で蔵王温泉まで来て、ロープウェーイ経由で登って来たんですよ〜」と、言っていました。
やがて蔵王地蔵尊に到着です。案内板によりますと、もともと蔵王山は、けわしい山で遭難者が絶えなかったのが、ここにお地蔵さまがまつられてから、ふしぎと遭難者が少なくなったそうです。またこのお地蔵さまにお参りすれば、願いごとがかなえられ、不慮の災難からものがれられるところから災難よけ地蔵尊とか、諸願成就の地蔵尊と呼ばれ、年ごとに信仰者が増え、いつとはなしに、右手の丸い山まで地蔵岳と呼ばれるようになりました。※蔵王エコーラインやロープウェーイが無かった昔は、今のように、簡単には登れなかったみたいです。

お地蔵さんのすぐ隣にあるのが三宝荒神山(さんぽうこうじん)1703mです。 周辺が蔵王自然植物園で一周0.4kmとの事です。しかしながら季節違いだったのか、植物園という程ではありませんでした。 ハクサンシャクナゲは沢山咲いていました。
三宝荒神山山頂です。ベンチと山頂標識があるだけの、比較的狭い山頂でした。正面には地蔵山、左方向には熊野岳を見渡せます。黄色い花はイワオトギリです。
蔵王地蔵尊より、地蔵山を巻いて熊野岳避難小屋へと向かいます。遊歩道にはコバケイソウの群生が勢い良く咲いています。振り返って三宝荒神山です。
熊野岳方面より、賑やかな声が風に乗って聞こえて来ます。熊野岳のアップです。沢山の遠足チームで賑やかっているのが見えます。近くにも少人数のチビッコ諸君が、元気にハイキングをしていました。ハクサンチドリも随所に咲いています。
         ウラジロヨウラク                      アオノツガザクラ  
            アカモノ                    水色の帽子が、健気に実っているようです。  
直進「ロバの耳コース」は落石のため通行禁止になっています。馬の背までコマクサの群生を眺めながら下がって行きます。凄い数の群生ですが、残念ながら見頃は過ぎていました。
先ほどの遠足チームは刈田岳に到着したみたいです。御釜が見えるビューポイントに座り、五色沼の綺麗な水面を眺めながら、ホット珈琲を頂き、ひと息です。
一瞬の間にガスが掛かって来ました。刈田峠レストハウスで寛いでいると雨が降り出しましたが、運よく雨に降られなかったので幸いです。
楽しみにしていた日本の名湯、蔵王温泉へと向かいます。ペット歓迎の秘湯の宿、大平ホテルでゆっくり寛ぎ、疲れを癒します。流石、五つ星源泉100%掛け流しだけあります。源泉の色と泉質が素晴らしく、まるで五色沼を連想されられる程、インパクトがありました。趣味で沢山の温泉には入っていますが、文句なしの五つ星源泉でした。
 おまけ 

 山頂レストハウス駐車場まで車で行ける為、最高峰の熊野岳までわずかの標高を上げるだけです。
 お釜(五色沼)観賞でしたら、駐車場より2分も歩けば展望台ですので、
 苅田岳周辺は圧倒的に観光客の方が勝っていました。
 更に苅田岳〜熊野岳〜地蔵山までは緩やかな山道が続き、
 まさしくハイキングモードで楽しめる東北の名峰でした。
 
 山容やコーススペック等、同じエメラルドクリーンの湯釜を持つ、草津白根山を連想しました。
 両お釜共、近くで拝めないので残念です。
 機会があったらスノーモンスターとも、是非お会いしたいと思ってます。
 
天候:曇りのちガス
出会った人:100名位(遠足チームが7割位)
全く当てにならない疲労度:★☆☆☆☆
(刈田岳〜熊野岳周辺はハイキングコースです。)

 

  会津 鶴ヶ城へ


会津藩の城は、「若松城」という名ですが、一般に「鶴ヶ城」という呼び名で呼ばれています。 今回で3回目の訪問になりますが、大河ドラマ「八重の桜」で知名度が上がっていますので、蔵王からの離れていますが、帰路ですので再び見学をする事にしました。
鶴ヶ城は、1384年に葦名氏が黒川城として創建し、かつてはあの伊達政宗が治めていたこともある東北の要。戊辰戦争では新政府軍の猛攻に1ヶ月耐え、ついに落城しなかった難攻不落の名城でもあります。大きな堀に囲まれ、巨大な石垣を迷路のようにくねくねと何度も曲がって行かないと天守に辿り着けません。さすが親藩・松平家の城です。堀には蓮の花が綺麗に咲いています。大きい蓮の葉に亀さんがやって来て、ひと休みしていました。
 
破損と老朽化の為、明治7年には陸軍省の命令により取り壊され、現在の天守は昭和40年に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。城の中は展示スペースになっていて、歴代藩主とお城の変遷や戊辰戦争の様子など、充実した展示内容になっています。重要展示場は撮影禁止になっていますので、歴史を頭に焼きつけながら見学です。天守閣より眼下を望みます。
企画展などが開催されていました。
以下、新島八重(1845年〜1932年)のエピソード。
『戊辰戦争の会津若松城籠城戦で自らスペンサー銃を持ち、男装して参戦したと言われており、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれている。八重が井戸の上に板を渡し、その上に座って裁縫をする姿に襄が心ひかれたというエピソードは有名。新島夫婦の男女平等の姿勢から夫と対等にふるまう八重は、当時「悪妻」「鵺(ぬえ)」「烈婦」などと呼ばれた。襄との夫婦仲は良く、襄はアメリカの友人への手紙で八重について「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と記している』

至徳元(1384)年、葦名直盛が、現在の場所に東黒川館を建てたのが始まりといわれています。文禄2(1593)年、蒲生氏郷が7層黒塗りと想像される 天守を建て、鶴ヶ城と名付けました。寛永16(1639)年、加藤明成が西出丸と北出丸を増築し、現在と同じ5層白塗りの天守になります。その後、保科正之が入封した際、雪国でも割れにくい赤瓦へと葺き替えられました。
難攻不落の名城とうたわれ、戊辰戦争の際には、ここで1か月にもおよぶ籠城戦が行われました。八重も弟の仇を討つため、また主君のために、男装して籠城戦に参加。夜襲で敵陣に切り込むなどの大活躍を見せました。
戊辰戦争後は、明治政府によって破却を命じられましたが、昭和40年に再建。平成23年には、戊辰戦争当時の赤瓦に葺き替えられ、八重も見ていた当時の城が甦ることとなりました。
・会津観光ナビより

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